水たま♪旅日誌    旅・歴史・お酒が大好き

お勧めスポットや旅先での景色・銘酒など旅日誌を中心に、たまに備忘録などきままに書き綴っております。

③天草四郎って‥なるほど‥~ ★隠れキリシタンの旅

遅ればせながら、新春のお慶びを申し上げます。

毎度毎度のマイペースでの登場ですが、自分の無理のないペースでこれからも細々まったりとやっていきたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

 

では早速、前回の天草・崎津集落の見学を終えて、島をぐるっとまわり、長崎に移動して行きます。

海岸沿いをレンタカーで快調に飛ばします♪

甘草海岸沿いには「天草夕陽八景」なるポイントがあって、きっとさぞや夕陽が綺麗なんだろうなぁ~と思います。

 

 

 

甘草のある熊本と長崎の間の海岸は、イルカウォッチングができるようで、いくつか観光船がでているようです。

可愛いイルカも見たかったのですが、時間の余裕がなく今回は断念!

 

さてさて、いよいよ熊本県天草から、レンタカーごとフェリーを利用して長崎に渡ります。

甘草のキリシタンの様々な事を学び、そして何より、隠れキリシタンを巡る中で、一番重要な『島原の乱』これをしっかり学んでみたかった。

 

★フェリー乗り場

 

鬼池港 ➡ 長崎(南島原)の 口之津港 まで船で渡ります。

甘草を巡る道中いくつか目にした「天草四郎の像」

ここのフェリー乗り場にもいましたよ。

 

フェリー、来たぁ~~~!!!

  無事乗船~~!

海に沈もうとする太陽をみながら、船内でご当地の柑橘「きびる」を使った

キビルサイダーなんか飲みながら、巡ってきた天草の歴史なんか思い起こしながらゆったりと時間を過ごす。もうじき南島原です。

 

原城跡(世界遺産群の一つ)

宿に入る前に、原城跡を訪ねます。

今はもう何も残っていませんんが、ここが日本史上最も大きな暴動(当時は一揆)の

島原の乱 』 の舞台となった「原城」があった場所です。

今はただ広い敷地だけが残っていますが(写真はWEBより拝借してます)ここには昔、三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城でがありました

 

 

島原の乱天草四郎

長崎は南蛮との往来もあり、キリスト教布教も大変盛んでキリスト教徒も沢山増えていた地域です。

豊臣秀吉の頃から、キリスト教布教の禁止令はありましたが、それはまだ多少ゆるいものでした。しかし徳川の時世になると、それは厳しくなり、1613年、全国に向けてキリスト教禁止令が出されました。

長崎や天草地方にはキリシタンも多く、大名は改宗を進めましたが、人々は隠れながらキリスト教を信じ続けていました。それが隠れキリシタンの歴史なわけですが・・・

この頃、この原城を廃城にして、新たに島原城を築城しようとします。

それでなくても厳しい年貢にあえいでいた領民でしたが、城普請の費用を確保するために、領民達に通常の2倍の年貢を課しました。

当時は、ヒエもアワも食べられなかったといいます。そんな究極に苦しい生活の中で彼らを支えていたのが、キリストの教えであり、キリスト教そのものだったわけです。

しかし、その唯一の支えの「キリスト教」さえ厳しく禁じられたのです。

そして1637年、天草四郎を指導者に据えた領民たちが一揆を起こしたのです。島原、天草の領民たちが合流して廃城になっていた原城に籠城。

4か月に及ぶ戦いで、領民の被害者数は3万7,000人を超えていたと言われています。

しかしこの領民達だけで、討伐軍の軍勢12万人を相手にしたといいますから、領民達がどれほど奮闘したのかが伺えます。

島原の乱で多くの領民が亡くなり、この界隈の領地に在住する者が激減してしまい。この土地への移住をすすめたらしいです。)

総大将の天草四郎原城落城のあと捕らえられ、長崎でさらし首にされました。

この城跡からは、多くの遺骨が掘り出されていて、今でもまだ土の下には沢山の遺骨が残ってると言われています。

 

 

この一揆に至るまでに、領民達はいかほどの辛い思いをしていたのかと思うと胸が熱くなります。

甘草でタクシーに乗った時、年配の運転手さんと少しお話をしました。

 

私が島原の乱もそうですが、パレスチナの戦いもやはりそれぞれの神を信じる力は大きいですねぇ~」と言ったところ。

運転手さん「島原の一揆はもちろんキリシタンの反乱という事もありましたが、でもそれだけではないのです。皆貧しく苦しい生活を強いられていたのです。だから戦うしかなかったのです。仮にキリシタンが弾圧されたとしても、彼らが普通の暮らしができていたらあんな一揆は起こらなかったはずです。中東の戦いもそうです。宗教が基本にありますけど、きっと苦しい生活が根底にあるはずです。だから戦うしかないんだと思います。」

運転手さんの言葉は、何だかジ~ンと胸にしみました。

 

さて、その天草四郎 一体何者だったのか?

天草四郎の本名は益田四郎父親はキリシタン大名小西行長の家臣で、父もまたキリシタンでした。四郎は9才の頃から学問を始め長崎に遊学に行っていたようです。

四郎が生まれた1621年の8年前に当たる1613年、キリスト教禁止令が出された年に、「25年後に神の子が出現して人々を救う」とマルコス宣教師が予言を残していました。

そしてちょうど25年後の1637年、四郎は数々の奇跡を起こしたとされることから、人々は「神の子だ」と噂をするようになります。これが、ちょうど島原の乱が勃発した年です。

当時、四郎は若干16歳!という若さ。まあ、日本版ジャンヌダルク!?みたいな感じでしょうかね?

 

しかし、この島原の乱で大きな犠牲を出した以降、徳川はますますキリスト教に対しての取り締まりが厳しくなったようです。

 

熊本の天草から島原まで巡って、色々な資料館もみて、様々な事を学びました。

こういう学びがあるのも、旅の楽しさの一つです。

今宵のお酒は、また格別に美味しい~♪